怪文書

 

 

 私は諦めの岸に立っていると、強く思わされた。

 

 キャラ数の多い作品というのは、世の中に数多くある。キャラの数が多い以上、スポットライトが平等に当てられないということは起きる。

 私は気づけばスポットライトの多く当たるキャラクターよりも、比較的それを浴びる機会の少ないキャラクターに惹かれていることが多い。理由は色々ある。想像の余地があるということもあれば、見飽きるという現象が起こりにくいこともあるだろう。舞台に上がらないからこそ、理想像と違うということが起こりづらいこともあるかもしれない。一癖あるゆえに、スポットライトを当てにくいキャラがストライクど真ん中、ということも、もちろんある。

 

 とにかく、そういう報われない好意に身を晒した経験がとても多い。人気投票などではまず日の目を見ないわけだ。

 そのことに文句があるかというと、正直ない。大抵妥当なキャラクターに人気が集まって、私自身もそうだろうな、という気持ちでランキングを眺める。自分が一票を投じたキャラクターがふるわなくても、一瞬惜しみこそすれ、そう悲嘆に暮れることもないというのが本当のところである。自分が好きなキャラは世間の同意を得られなくとも好きだし、世間で好かれているキャラとか、ムーブメントによって躍進したキャラとかを知るのも楽しい。

 

 さて、今回「アイドルマスターシンデレラガールズ」の総選挙を私は外野から見ていた。

 外野なりに、いくつかの悲しみを見た。悲しみと一言にいっても色々な形があった。推しが圏内入賞に届かなかったとか、投票の形式に不満があるとか、上位キャラクターへの嫉妬やそのキャラクターへの投票をしたプレイヤーへの不信感とか。私の知らないところにはそれ以外の形の悲しみや怒り、苦しみもあったことだろう。

 でもそれがどうしたのだろう。私はこの総選挙にこそ参加はしていないが、好きなキャラがランクインしない経験ならいくらでもある。

 票はいきものだ。どうしようもなく強い多数派集団もあれば、大きな流れにあわせて行先を変えるような振る舞いもする。票を投じているプレイヤーは人間で、常に一番好きなキャラクターに投票するロボットではない。勝ち馬に乗ると言えば聞こえが悪いが、誰かを一位にしようという働きに一口乗る、というくらいのことはそんなに悪いことではない。

 そんなことは外野の私に言われなくてもだいたい承知のことだと思う。けれど、それでも溢れる感情があったのだろう。

 

 ああ、と思った。すごい。自分が好きなキャラクターを何が何でも圏内に入れたかったのだろう、と控えめに言って感動した。

 それは投票の形式によるものかも、順位の見返りのためのものかもしれない。特定のキャラクターを応援し続けたことへの報いが欲しかっただけかもしれない。そしてその感情は必ずしも綺麗なものであるとは限らなかったことだろう。

 けれどその感情は、私が持てなかったものだった。

 自分の「好きだ」「応援したい」という気持ちにそれだけの価値を見出だせている。それはどうしようもなく私の手の届かないものだ。

 私は諦めの岸に立っている。人気投票を前にしても、投票結果という厳然とした事実を岸から眺めるばかりだ。もちろん、私がプレイヤーなら出来る限りは私の好きなキャラクターに投票するだろう。けれど、結果を前にあるのは諦観だ。もしそれが私にとっていい結果でなくても「ああ、こうなったのか」と思ってしまうに違いない。

 なんとか自分の気持ちの価値を認めてもらおう、と激流に向かう勇気はない。出来るだけのことをすることでもう満足で、結果が出なくても悲しみを覚えることは出来ない。私の「好き」にそれだけの価値があると確信出来ないのだ。

 

 その感情ゆえに苦しんだ人もいるのではないかと思う。自分の思いに価値を見出だせば見出すほど、自分の応援しなかったものが結果を出すことに素直な祝福ができなくなってしまうのは当然だろう。

 他人を祝福できない自分と祝福できる他人を比較して、自分を卑小だと感じたり、世間との乖離を感じたりする。好きなものを好きなまま、好きと認めてもらえないまま引退したような人も、中にはいるかもしれない。

 すごく不幸な話だ。好きなものを好きになっただけなのに、その好きが貴すぎるあまりに自己嫌悪にまで至る。そういう感情を、私は総選挙の中に見た。

 

 正直に、そういう「好き」は素敵だと思う。それほどの強さで自分の「好き」を語れることに憧れる。私にはできない。そしてこれからもきっとできないだろう。

 現実に、次の総選挙では結果を出せる、という次元にもないキャラクターは少なくないことだろう。

 けれど、キャラクターを好きなその人の気持ちには、好きであるだけで十分な価値があると、私は思う。世間の順位如何にかかわらず、好きなものは好きだからしょうがない

 「好き」は好きだから、というだけで認められるものなのだ。それが世間の同意を得られなかったとしても、その人の「好き」が脅かされることはない。逆にただ世間の同意を得られただけで、その人の「好き」を担保することにもまたならないのだ。

 嘆くのをやめろとはとてもいえない。というか、存分に嘆いていいと思う。それだけの好きにはそれだけの価値がある。それだけの価値があるからこそ、そのことで傷つきすぎないでほしい、と私は願う。

 

 総選挙、お疲れ様でした。

 全プレイヤーに敬意を。